一生グーチョキバナナ

掘り下げて分解する。繋げて広がる。

モラトリアム状態をイメージする

何がしたいかわからない。
それは、何者になるのか選択を先延ばしにしている猶予状態(モラトリアム)ともいえる。

モラトリアムについて掘り下げる前に、いまの私のモラトリアムのイメージを書いてみる。



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「瓶の水(自分)を濾過して何もないところで宝探しをするのがモラトリアム人間 注1」



モラトリアム人間の水は澄んでいる。
というか澄みすぎている。
迷う人にはいくつものフィルターがある。

やれる実力はあるのか
バカにされないか
迷惑にならないか
お金が足りるか
時間はかかるのか

そうやって厳選した結果、何も残らなくなってしまったのが現実だ。

自分ですっかりなくしておいて、その身以外に何もないハズの水のなかで、何かないかと探しまくっているのだ。



しかも、何でも良いわけではない。

わずかにフィルターをくぐり抜けてきたものを掴んで吟味し、それがゴミだとしたら、すぐにポイっと瓶の外へ追い出す。

(実際はゴミではなくても、使いこなせない気がしてゴミに見えてしまうのだが)

またゴミを掴まされたらたまらないから、よりフィルターを厳重にする。

モラトリアムを拗らせるほどに、澄みきっていくのだ。



なのにモラトリアム人間は、寧ろ汚泥の中に居るような気分なのだ。

溢れる情報、他人からの様々な期待、やらなければいけないことなどがぐちゃぐちゃに体にまとわりついていて、身動きがとれないように感じている。

シンプルに生きろという言葉を目にする度、このぐちゃぐちゃを取り除きたくてたまらなくなる。



疲れきってぼんやり上を見ると、何重ものフィルターにたくさんのものを引っ掛けていたことに気付く。

もう原形が分からなくなってしまったものも多い。

このままこの水のなかを探しても意味がなさそうだと思ったとき、フィルターを突っついてみる。
最下層から少しずつほじればいいものを、全部ぶち抜いてみたくもなる。

モラトリアム人間はフィルターを張り慣れているのでろ過には大して苦労しない。
同じものを何度もろ過続けているモラトリアム人間も少なくない。いわゆる堂々巡り状態だ。



ところで、新しく外から得ようとするのは気分的な労力が大きい。

自分が瓶から出なくてはいけないからだ。
だが、このとき感じる重力も半端ではない。

瓶の水の中は、外部と隔離されている場所で限られた情報しかない。
そこで泳ぎ慣れていると、外の沢山の情報やら他人の目に圧倒されてしまう。

そして狭く苦しく感じながら、ずっと水の中でいつか降ってくるかもしれない宝物を探し続けるのがモラトリアムから抜けられない心理だ。



※小此木圭吾 氏の著者「モラトリアム人間の時代」に出てくるモラトリアム人間という言葉がモラトリアムの渦中にある人を表すのに適していると思い、私も使わせてもらった。
但し、小此木氏の著者を読む前のイメージを書いているので、小此木氏の定義するモラトリアム人間とは別物である。